2月11日、午後から神戸に行きました。いつも神戸では、私の街頭演説の声、ものすごく良く響くのです。
何故か?私にはわかるんです。祖父、川崎造船神戸工場長、井上太一は、昭和11年、神戸で2000人の職員を前に訓示しているところで、倒れ、そのまま亡くなりました。社葬になったそうです。
 人間の魂は、亡くなったところを、離れない、といいますから。
 
 ここ数日、母の容態は、悪く、人工呼吸器をつけていました。私は、須磨区の会合で、祖父に聞こえるように、母のことを、母がとてもかわいがってもらった祖父に、お嬢様として大事に育てられていた、昔の神戸、日本で一番新しいお菓子や生地が入ってきた神戸のことを、自慢げに私に語った母のことを、話題に入れました。

 だから、祖父が呼んだのだと思います。もう苦しまなくいいよ、と。そろそろおいで、と。
 最初に母が危篤になったとき、いつ解散があるかわからない2年2ヶ月前。
 それも、私の選挙の情勢はとても不利で、とても切羽詰った状態でした。
 叔母やいとこも集まってくれて、もう駄目、というとき、、、。なぜか、一晩手を握っていたら、心拍数も、呼吸も戻ってきて、、。
 一命をとりとめました。奇跡的に。昔の医療であれば、ここで亡くなっていたでしょう。
 それ以来、私は、母が結婚以来つけていた細い金の指輪をしています。

 状態がやや安定しても、70代で2度も海外旅行に行った末、もらってきた肺炎で、肺の3分の一がやられており、回復の見込みは全くない、「喉を切って、胃ろうもしないと、もちませんが、延命措置をしますか?」

 ERで担当していてくださった、私よりちょっと若い担当医さんが、かなり真剣に何度も確認をなさいました。
 つまり「苦しみが長引くだけですよ。」とまでは言いませんでしたが、それに近い表現で、、。
  私は、苦しい判断ができる精神状態になく、とにかく何をしても、生かしてください、と申し上げました。
  一番相談すべき、判断をしてくれるべき、父は、かろうじて認識能力がある程度で、要介護4の車椅子状態です。とても、母の状況を伝えられません。理解したとしても、気落ちするだけでしょう。
 自分ひとりの判断でした。主人も何もいいませんでした。

 それから、いろいろなことがありました。
 私は、苦い落選から、七転八倒して、試行錯誤の末、再び政界に戻ることとなり、真夏の選挙を戦って、再びバッジをつけました。しかし、意識のある母はもうそこにはいませんでした。
 それから、ずっと、夢でうなされると、早く楽になりたい、という母の声が聞こえるのが、昨日は聞こえなかったので、夜中の電話がなったとき、何がおきたかすぐにわかりました。
 とてもやすらかな顔でした。
今日、院長さんともお話しました。この手の病院では、介護の用品には医療保険に適用はないのです。患者の家族の負担は、毎月かなりのものになりますので、当然ぎりぎりにします。
 だから、病院の経営もぎりぎりになります。

 全国に、似たような状態で、まるで真空のように静かな病棟に眠り続けている、声も出せず、動くこともない、お年寄りが、たくさんいらっしゃいます。
 望ましくは、50代、遅くとも70代前半で、脳ドック義務付け。
 寝たきりにならないこと、歩き続けられること、、自分で噛めて食べられる状況であり続けること、人間として尊厳をもって、「生きているように生きる」こと。

 そうでなければ、世界最長寿国家は、世界一暗く、沈滞した社会。人間をちっとも幸福にしない社会になるだけです。
 医療や科学技術研究費は、このことに注力すべきでしょう。