今日のニュースで、5000人以上の国民が内戦で死亡しているといわれる中東、シリアで、アサド大統領率いる政府側が、海外のマスコミを受け入れる作戦に転換した、と報道され、記者がシリア側の案内で、デモの犠牲者の追悼式他を見学取材したときの模様が流れていました。

 政府側が用意したであろうバスの中に、明らかにシリア政府の私服の秘密警察と思われる人たちが、記者の監視のために乗っているのですが、その服装たるや、26年前に見たものと、あまりにそっくり、というかかわらないので、思わず吹いてしまいました!

 私の留学先、フランス政府の国立の行政学院であるエナ(ジスカールデスタン大統領やシラク大統領の出身校です)の、学年ディドロ(エナでは、各学年に、フランスの偉人の名前をつけます。我々の学年は、百科事典を作ったと言われるドゥニ・ディドロでした。)の外国人クラスは、フランス政府の公式訪問団として、初めてシリアを一週間訪れました。
 ちなみに、我々の一つ下の学年は、バランスをとるために、イスラエルを訪問しました。
 今日シリアで起きていることは、当時からの、連続線でフォローすると、理解しやすいと思います。
 当時も、日本の外交は中東オンチで、イラン革命の一ヶ月前に「パーレビ体制は磐石」と打電した大使がいたほどですが、フランスは、エナの研修の段階から、中東を外交の一つのテーマにしています。
いま、エナ出身ではないサルコジ大統領が依拠しているのは、植民地または委任統治、軍の駐留と撤退、フランス大使暗殺を含む、シリア等の国際テロ組織との戦いを経てきた、エナルシー〔フランス型官僚主義)の基礎工事による土台です。

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 1984年11月、ミッテラン大統領は、フランスによるシリア委任統治放棄以来、初めてシリアを公式訪問し、長年の両国の緊張状態はいくぶん緩和した。そんな中でエナが初めて受けいれたシリア人留学生のシリア政府への働きかけと、シリアに対する国際的避難が(ハマス等について)強まる中での外交上の必要性から、中東への発言力の大きいフランスの政府学校で主要先進国の官僚を受け入れているエナを、シリア政府として受け入れる運びとなった。1985年3月のことである。
 アサド大統領〔現大統領の父)は、空軍将校出身で、当時57歳。1970年のクーデターで実権を掌握、71年、78年、85年と、99%の得票率で、大統領に三選されている。到着すると、空港、道路、道行く車の窓ガラス、商店の入り口など、あらゆる所に巨大なものから小さなものまで、大統領の顔写真だらけ。
 (先ほど見たシリアの今の風景で、息子である現大統領が、なんとか父のようになろうと、やたらに巨大な肖像がや写真を増やしているのは、可笑しかった)
 直接豪華なvipルームで、シリア外務省、観光省、駐シリアフランス大使館の出迎えを受けたが、そこから特殊部隊の警護〔見張り)がつけられ、車での移動は、パトカーが先導。この特殊部隊をかつて率いていたのが、当時は次の大統領と見られていた、弟のリファ副大統領であり、反対派の制圧を行ってきた。84年には、そのリファ率いる特殊部隊と政府の正規軍の対立が、すわ内戦まで発展し、事態を正常化するため、特殊部隊を大統領が解散し、リファ副大統領は、国外に一時的に亡命させられた。
 当時のシリアは国家予算の3分の一が、軍費。街中にはやたらに軍服が目立ち、戦車などもみかけたが、ほとんどがソ連製。約7000人のソ連の「軍技術関係者」が駐留していた。
 一人あたり国民所得1500ドル、負債20億ドル、武器支払いはおそらくソ連側の融通、借り入れはopec。つまり、対イスラエルでの防衛上の役割を負っているシリアに、他のアラブ産油国が配慮してきたわけ。
 アサド父大統領の統治時代も、イスラム伝統主義者(アサド大統領は、イスラムの少数異端であるアラウィストで、憲法上政教分離を断行)や他の反対勢力が何度もデモをし、82年のそれは、1万5千人死者を出し、政治犯が1万人いた。(今回の5000人は、その当時に比べれば特別なことではないと息子大統領は思っているかも)

 にもかかわらず、貿易相手国は、ドイツ、イタリア、フランス、日本、米国、と西側より。
 キッシンジャーをして「最も偉大な国家元首の一人」と言わせた巧みで分かりにくい外交戦略で、わずかにとれる石油の開発は米国資本に任せ、車は日本車、家電も日本製が人気、しかも割りに高くない。
 新聞、テレビ、ラジオは全て政府の統制化にあるが、国民は、隣国ヨルダンの自由放送〔今ならアルジャジラとネット?)を通じて、何が起きているか良く知っている。(中東で、最も教育文化レベルが高く、西欧的な国。服装も洋服が主流で、マイケルジャクソンの音楽も流れている)
 アサド独裁前の1950年代には、3ヶ月に一度内戦がおき、国は疲弊しきっていた。それを統一し、インフラ整備を達成した大統領への信認は、確かに存在していた。シリアは、イスラエルのみならず、イラク〔フセイン時代)、レバノンの反シリア勢力、エジプト、と周り中と緊張関係にあり、通常の民主主義国家では独立の維持は無理だった。(フランス大使他、在シリア西側外交団の見方)
 83年に、父アサド大統領が入院していらい、権力闘争が内戦になり、当時跡継ぎ候補だった弟は、暴力的であり、失脚、その後何人かの候補がいたが、結局息子が継いだ。しかし、息子には、貧困のなか、中東戦争を乗り越えて、国を作ってきた父の業績もカリスマ性もない。

 当時の私の記録を読み返ししても、息子アサド氏がまねしているのは、弾圧手法だけ。やりすぎなようでいて、ぎりぎりで、国民の不満を爆発させなかった父アサド氏のバランス感覚や人心掌握は、とてもできそうにない。
 当時から、アサド後におきうる大混乱、カオスが心配されていたが、思ったより長く父は生きた。
 しかし、フセインは鎮圧され、アラファトもいない。中東は当時より安定化し、国際政治のなかで、シリアに軍事的独裁政権をおいて置く必然性は薄れている。
 反乱の起きた町の電気やライフラインを止めるのは、当時からのやり方で、記者はそれを困窮とだけ見たのだろう。そして、親大統領派による集会は、もちろんやらせでもあるが、混乱を望まないなら、今の大統領がまし、という層がいるのも事実だろう。チュニジアに始まったジャスミン革命。シリアでは、前からあったのだから。