83歳で心不全で亡くなったとの記事を、今朝の新聞で見るまで、迂闊にして存じませんでした。
まずは最愛の奥様淳子さま、ご遺族に心から深く哀悼の意を表させていただきます。

 あれから17年、初めて中坊日弁連会長に、住宅金融債権管理機構の社長をお願いし、ご挨拶に伺った日を思い出します。

 今では不良債権回収は、通常の業務、ふつーのこと。サービサーという債権回収専業者も、私が基本骨子をつくり、杉浦元法務大臣中心に議員立法がなされ、法成立からはや15年。200社近くが営業していますが、「債権って取り立てるの?」という時代で、民事再生法も特定調停法もなく、住専の不良債権にはいわくつきの銘柄もあり、大蔵省のまわりを街宣車が取り囲んで、住宅処理法の成立は6月までずれこみ、これを盛り込んだ当初予算も通らず、暫定予算を補正する?という珍事がおきてしまいました。引責して、銀行局長も退任、そこで、この問題の処理のために、厚生労働担当の主査だった私が、担当室長として送り込まれました。

 中坊氏のリーダーシップは凄いものがあり、回収目標をただちに設定し、「何がなんでも国民の税金負担になりうる2次ロスは出さない」ということで、そのためにはどんなことでも、といって思いつくことを連日連夜、我々に言ってこられました。12兆円の額面債権を6兆円超で譲り受け、あらゆる論者から「譲り受け価格の査定が甘いから、1兆円を超えるロスが出るのは不可避」、と言われていた時代です。
 集められた旧住専の社員や、金融機関からの出向組みをとにもかくにもまとめて、本店支店を再編成し、指揮命令系統を作り上げたのは、他の方では決してできなかった偉業でした。

 しかし、そのとき弁護士会の方々が仰っていたことを思い出します。「片山さん、弁護士の敵は弁護士なんですよ。弁護士会の懲戒ほど恐ろしいものはない、仲間内に徹底して厳しいんです。」

 ノルマ主義が行き過ぎた、とも言われましたが、不適切回収を相手方の弁護士から告発され、廃業になってしまいました。つい最近まで大手の住宅メーカーの顧問をされて、お元気だとは聞いていましたが、。



当時の私はまだ若く、初めて管理職になったのがこのポストということもあり、この非常にタフだけれど挑戦のしがいのある仕事に、中坊氏とともに、相当打ち込みました。が、なぜがエセ○○団体が私のPHsナンバーを知っていて電話をかけてくる、など恐ろしいこともあって、ナニワ金融道を地でいくドラマを経験しました。

 そんななかで、中坊氏が検査入院をしたら、本当に小さな初期の癌がみつかってしまいました。そこで病室から私にまで電話がかかってきて、当時まだ67才とお若かったので、進行してしまうことを恐れながらも「表皮の癌なので、なんとか大丈夫そうだ、いつ退院するか、ほとんと毎日マスコミが話を聞きにくるのに、病状をどういおうか」、など色々な話をしたのを覚えています。結局、すぐ本人から発表してしまいましたが。

 まだまだ書きたい思い出がたくさんありますが、とりあえず合掌。